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阿久根「竹原帝国」2
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前回の記事で竹原氏について、「目指す方向性は合ってるかもしれない」と書いた。これは、竹原氏の考えていることが今一つ分からない段階で評価することは難しいと考えたためだ。しかし今回は、その目指す方向性をも非現実的と評するしかないと考える。と言うのも、ブログを読めば読むほど、そのおかしな世界は妄想の中で展開されているのである。

改めて、市長としてあるべき姿とは何かを述べると、この場合は阿久根と言う市が住みよくするように考え、リーダーとして周りを巻き込み行動すること、逆に言えばそれだけのことである。何の難しいことでもない。

ところが新年早々、”ありがたい”お言葉が…。「私がこの革命に取り組むのは職員や市民の皆さんに楽をさせるためではありません。金儲けができる面白い人生を差し上げる為でもありません。次の世代、そしてその次の世代を支えあい、慈しみあうものにするためです。」
職員はまだしも、市民に楽をさせるためではないとはどういうことか。首をかしげた。

その考え方を少しだけ具体化したのが、1月5日の成人式式辞としてアップされた記事である。
「競争をやめ、私たちが進んで底辺の苦労を共有するようになれば、競争の勝ち負けに関係なく幸福感と安心感で満たされる社会を作ることが出来ます。」「進んで苦労を引き受ける皆さんに期待します。」
成人式としては”ありえない”、夢も希望もないお言葉であるが、まあさすがに成人式と言うことで、ここまで踏み込んで”持論”を解説したとも言える。

つまり、人々が競争するから勝者と敗者が生み出され、結果として不幸な人を生み出す。だから競争をやめて、川の流れに乗るがごとくなすがままの人生にして、苦労の底辺を皆で共有するようになれば、競争に巻き込まれることなく幸せになれる、満足感を得られると言う。そしてそのための革命であり血も涙も伴うと言う。

私はこの考え方が全て間違っているとは思わない。一つの考え方としてはあり得るとさえ思う。しかし、今現在世界が一体となって動いている世の中で、これを実現しようとするなら、阿久根だけでは到底できる話ではなく、世界征服でもしないと無理なのは明らか。仮に世界征服せずに実現しようとするなら、1000年以上前に戻らねばならないだろう。要するに目指す方向と現実との間であまりに乖離が大きすぎるのである。もし仮にこれを本当に目指すとしても、今の枠組みの中で定められたステップをまずはいくつも踏んでいかなければならないのだが、それに向けた、理解を得る努力をしないから、法をも無視し世間を敵に回すことになる。

ところで、この考え方に一貫性があればの話だが、最近問題になった障害者差別や職員いじめの理由がうまい具合に当てはまってくるのである。つまり、川の流れに身を任せる生き方を理想としているのに、高度医療で無理やり生きるとはどういうことか。苦労の底辺を共有すべきなのに、職員の厚遇は許せない、と言うわけである。

すなわち、数々の”ありえない事件”は、竹原氏が目指す独自の世界観を僅か1ステップで実現し、加えて受け手の気持ちを考慮せずに自分のことだけ考えて表に出すから、問題となるのである。しかもそれを止めたり制限をかけるものを封殺した状態にあるのだから、前回「竹原帝国とでも名前を変えてもらいたい」と書いたが、実は竹原帝国は阿久根限定で既に成立してしまっていると言えよう。だから私は「阿久根市」とは認めない。

竹原氏は2度の市長選でいずれも僅差で勝利した。間違いのなれ果てとはこのことかもしれないが、法律のもとに誕生した市長が法律をひっくり返し、「自分のすることが世間で標準になる」と選挙中のブログ更新についてもこのように豪語しているのである。人々を苦労の底辺で統一するために革命を起こすという竹原氏が、どこまで”ありえない”ことが続けられるのか、あるいはどこかで決定的な失敗をするのか、まだ他人事で済むから落ち着いて興味を持って見ていられる。しかし阿久根の方々は大変なことだろう。住民はどのように感じておられるのか、市長の目指す世界観を理解しておられるのか、それを理解したうえで支持しているのか、それが分かって後の祭りとなっているのか、非常に気になっているところである。

テーマ:考えさせるニュース - ジャンル:ニュース

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